弔辞
TL;DR
- 日本最初の旅行会社である日本旅行が、愛知県の全国旅行支援事務局運営で約530万円の架空人件費を不正請求
- 派遣社員の欠員を実際に補充せず、勤務実態のない社員名でタイムカードを代筆し10ヶ月間継続
- 背景にはコロナ禍からの旅行需要急回復による人員逼迫と「欠員を報告できない」という現場の体面意識
- 同時期に近畿日本ツーリストで約16億円の大規模不正が発覚し、旅行業界全体の信用問題に発展
- 不正発覚後、2,457件の受託事業を総点検しガバナンス推進部を新設、経営陣は報酬を自主返上
企業概要と全盛期
株式会社日本旅行は、1905年に南新助が滋賀県草津で創業した日本最初の旅行会社である。「日本旅行会」として日本初の団体旅行を企画し、120年にわたり日本の旅行産業を牽引してきた。
その歴史は激動の連続だった。1941年の戦時体制により一時廃業を余儀なくされるも、1949年に株式会社日本旅行会として再設立。1967年には大阪から東京へ本社を移転し、翌年「株式会社日本旅行」に改称して全国展開を加速させた。
現在はJR西日本の連結子会社として安定した経営基盤を持ち、2025年12月期の連結売上高は2,130億円を記録している。「赤い風船」ブランドで知られる国内パック旅行は、多くの日本人にとって馴染み深い存在だ。
政府の全国旅行支援事業では39都道府県から事務局運営を受託するなど、公的機関からの信頼も厚かった。コロナ禍で壊滅的な打撃を受けた旅行業界において、政府支援事業の受託は経営の重要な柱となっていた。
愛知県の「いいじゃん、あいち旅キャンペーン」事務局運営業務も、委託費約23.7億円という大型案件だった。日本旅行を含むコンソーシアム形式で受託し、コールセンター運営や問い合わせ対応を担っていた。
創業以来、戦争による廃業と復活を乗り越え、バブル崩壊やリーマンショック、そしてコロナ禍という幾多の試練を経験してきた老舗企業。その120年の信用が、わずか530万円の不正請求で傷つくことになるとは、誰が予想しただろうか。
何が起きたか
2022年7月:不正の始まり
愛知県「いいじゃん、あいち旅キャンペーン」の事務局運営が本格化する中、派遣会社から欠員の連絡が入るようになった。愛知法人営業部長は、実際の補充を行わず、勤務実態のない社員名を出退勤記録簿に記載する判断を下す。
運営責任者は手書きの出退勤記録簿への代筆、日報への代理入力を実施。虚偽のタイムカードが組織的に作成される体制が構築された。
2022年7月〜2023年4月:10ヶ月間の継続
不正請求は約10ヶ月にわたって継続された。計166人日、45.5時間分、金額にして564万749円。決して巨額ではないが、毎月着実に積み重ねられていった。
この間、コロナ禍からの旅行需要は急回復を見せていた。支店の通常業務が繁忙を極める中、事務局業務への人員拠出は現場にとって重い負担となっていた。
2023年5月10日:発覚
愛知県から不正の疑いについて通報を受け、日本旅行は社内調査を開始。わずか6日後の5月16日、舘真常務が愛知県庁で記者会見を行い、約530万円の不正請求を発表・謝罪した。
2023年6月29日:最終調査結果と処分
不正請求問題の最終調査結果を発表。支店長ら6人が懲戒処分を受け、小谷野悦光社長と常務が報酬の一部を自主返上した。同時に、ガバナンス推進部の設置を発表。
2023年7月1日:ガバナンス推進部新設
組織改革として、本社直轄のガバナンス推進部を新設。愛知県以外の2,457件の受託事業についても、外部弁護士の指導の下で総点検が実施された。
最終的なペナルティ総額は2,300万4,767円。不正請求額の減額564万円に加え、営業管理費1,736万円を自主的に辞退した。金額以上に、120年かけて築いた信用へのダメージは計り知れないものがあった。
失敗の本質的原因
市場・競合環境
コロナ禍からの旅行需要急回復は、業界にとって嬉しい悲鳴であると同時に、深刻な人員不足をもたらした。2020年から2年以上にわたる需要低迷期に縮小した組織体制では、急増する業務量に対応しきれなかった。
全国旅行支援事業という政府施策が重なったタイミングも皮肉だった。本来であれば経営を支える収益源となるはずの受託事業が、人員を奪い合う競合関係に陥ってしまった。
経営判断と意思決定
最も致命的だったのは、支店レベルでの現場判断に過度に依存する組織構造だった。本社によるモニタリング体制が不十分であり、受託事業における人員配置の実態を把握する仕組みが存在しなかった。
愛知法人営業部長が「欠員を出すと会社の体面に関わる」と判断したとき、それを是正する上位のチェック機能は働かなかった。現場の苦渋の判断が、誰にも相談されることなく不正へと転化していった。
財務・資金構造
不正金額自体は約560万円と、委託費約23.7億円の大型事業からすれば0.02%に過ぎない。しかし、公的資金を扱う事業における不正は、金額の多寡に関わらず致命的な信用失墜リスクを伴う。
皮肉なことに、この「小さな」金額が現場の心理的ハードルを下げた可能性がある。「これくらいなら」という認知が、不正の継続を容易にしたのかもしれない。
組織と文化
「体面を重視した誤った防衛意識」——調査報告書に記されたこの一文が、問題の核心を突いている。欠員を正直に報告することが、なぜ「体面」の問題として認識されたのか。
コンソーシアム形式での受託という構造も、責任の所在を曖昧にした。複数社による共同運営は、「自社だけの責任ではない」という当事者意識の希薄化を招いた可能性がある。
外部環境・規制
同時期に発覚した近畿日本ツーリストの不正請求事件(約16億円)は、旅行業界全体の構造的問題を浮き彫りにした。ワクチン接種コールセンター等の自治体受託事業で社員4人が逮捕される刑事事件に発展し、業界全体の信用が問われる事態となった。
コロナ禍で本業が壊滅的打撃を受けた旅行会社が、BPO(ビジネス・プロセス・アウトソーシング)事業に活路を見出そうとしたこと自体は合理的だった。しかし、旅行事業とは全く異なるガバナンス体制が必要であることへの認識が不足していた。
経営者の意思決定を再構築する
小谷野悦光社長の立場に立って考えてみよう。
コロナ禍の3年間、旅行業界は存亡の危機にあった。インバウンドは消滅し、国内旅行も激減。120年の歴史を持つ会社を守るため、あらゆる収益機会を模索するのは経営者として当然の判断だった。
政府の全国旅行支援事業は、まさに「渡りに船」だった。39都道府県から事務局運営を受託できたのは、長年築いてきた信用と全国ネットワークの賜物だ。これらの受託事業が、コロナ禍を乗り越えるための重要な収益源となった。
しかし、2022年後半から状況は急変する。旅行需要が急回復し、本来の「本業」が忙しくなり始めた。支店は旅行手配業務で手一杯となり、事務局運営への人員拠出が困難になっていく。
経営者として、このトレードオフにどう向き合うべきだったか。本業優先か、受託事業の履行義務か。現場からの悲鳴は、おそらく本社には届いていなかった。「なんとかしている」という報告だけが上がっていたのではないか。
愛知県の現場で起きていたことは、ある意味で「問題解決」だった。欠員を報告すれば委託元との信頼関係に影響する。かといって人員を補充する余裕もない。虚偽の報告という「解決策」は、短期的には誰も傷つけないように見えた。
問題は、この「現場の創意工夫」を誰もチェックしていなかったことだ。本社が把握したのは、愛知県からの通報を受けてからだった。
発覚後の対応は迅速だった。6日後には記者会見を行い、全社的な総点検を実施し、ガバナンス推進部を新設した。経営陣が報酬を自主返上したことも、責任の取り方として評価できる。
しかし、なぜ事前に気づけなかったのか。2,457件もの受託事業を抱えながら、人員配置の実態を本社が把握する仕組みがなかったこと。それこそが、本当の「失敗」だったのではないか。
海外類似事例との比較
2019年、178年の歴史を持つ世界最古の旅行会社トーマス・クック(英国)が破綻した。Brexitの不透明感、政情不安、熱波による海外旅行手控えが重なり業績が悪化。約1,200億円の資金調達に失敗し、破産申請に至った。
60万人の旅行者が海外で足止めされ、英国政府は史上最大の帰還作戦「マッターホルン作戦」を実施するという異常事態となった。日本旅行の不正事例とは性質が異なるが、「老舗の信用」が一瞬で崩れる怖さを示している。
より直接的な比較対象は、同時期に発覚した近畿日本ツーリストの事例だ。新型コロナワクチン接種コールセンター等の自治体受託事業で、最大約16億円の過大請求が明らかになった。86自治体で不正の可能性が指摘され、社員4人が逮捕される刑事事件に発展した。
調査報告書では「知識不足とノルマ意識」が要因とされた。旅行業のプロフェッショナルが、全く異なる領域であるBPO事業を受託した際の「文化の衝突」が浮き彫りになった。
日本旅行と近畿日本ツーリスト、規模は30倍以上異なるものの、構造的な問題は共通している。コロナ禍で本業が壊滅的打撃を受けた旅行会社が、政府・自治体の受託事業に活路を見出したこと。しかし、公的資金を扱うBPO事業に必要なガバナンス体制を十分に構築できなかったこと。
業界全体の信用問題として捉えるべき事象であり、個社の問題として矮小化すべきではない。
経営者・起業家へのインサイト
1. 「体面」を守ろうとする現場は、実は孤立している
欠員を報告できないと感じた現場は、本社に相談するチャネルを持っていなかった。「体面」という言葉の裏には、「正直に言っても助けてもらえない」という諦めが隠れている。問題を報告しやすい組織文化は、ガバナンスの前提条件である。
2. 「小さな不正」ほど継続しやすく、発見しにくい
約560万円という金額は、23.7億円の委託事業の0.02%に過ぎない。この「小ささ」が、現場の心理的ハードルを下げ、10ヶ月もの継続を可能にした。巨額の不正には監視の目が向くが、「些細な」不正こそ組織を蝕む。
3. 本業と受託事業の「人員の奪い合い」は必ず起きる
需要回復期こそ危険だ。本業が忙しくなれば、受託事業への人員拠出は後回しになる。契約時点で、需要変動に応じた人員計画の柔軟性を確保しておくべきだった。
4. コンソーシアム形式は責任を曖昧にする
複数社による共同運営は、効率性と引き換えに当事者意識を希薄化させる。「自社だけの責任ではない」という認知が、問題の早期発見を妨げる。共同事業こそ、責任範囲の明確化が不可欠だ。
5. 発覚後の対応速度が、長期的な信用回復を左右する
日本旅行は通報から6日で記者会見を行い、全社的な総点検とガバナンス強化策を発表した。この迅速さが、「継続営業中」というステータスを維持できた要因の一つだろう。隠蔽や責任回避は、傷口を広げるだけだ。
あなたが経営者だったら?
問い1:需要急回復期に、本業と受託事業の人員配分をどう判断するか?
契約上の履行義務と、本業の機会損失。どちらを優先すべきか。そもそも、この二者択一に陥らないための事前策は何だったか。
問い2:現場が「欠員を報告できない」と感じる組織文化をどう変えるか?
問題を報告した人間が評価される仕組みは存在するか。「悪いニュース」を上げやすい風土を、どうすれば作れるか。
問い3:自社の専門外領域に進出する際、ガバナンス体制をどう再設計するか?
旅行業のプロフェッショナルが、BPO事業を成功させるために必要な「知識とスキルのギャップ」をどう埋めるか。外部人材の活用か、内部育成か、それとも撤退か。