弔辞
TL;DR
- 黒字決算中に売上の4割を占める自動車部品事業を売却——赤字転落を待たない「攻めの撤退」を断行
- 輸送機器事業は売上1,361億円で営業利益わずか6億円——利益率0.4%の事業に経営資源を割き続ける非合理性を直視
- 創業家3代目・寺町崇史社長が27年ぶりの世代交代で変革を主導——ファミリー経営でも聖域なき改革は可能
- ROE3%台から10%超への引き上げを明確な数値目標として設定——資本効率の改善を経営の中心に据えた
- GE、シーメンスと同様の「選択と集中」を日本の中堅製造業が実践——グローバル標準の経営判断を体現
企業概要と全盛期
THK株式会社は、1971年に寺町博氏が東邦精工として創業した直動システムのパイオニアである。同社が世界で初めて開発・製品化したリニアモーションガイド(LMガイド)は、工作機械、半導体製造装置、ロボットなど精密機器の心臓部を担う基幹部品として、現代の製造業を根底から支えている。
その技術的優位性は数字に明確に表れている。LMガイドの国内シェア約70%、世界シェア60%超という圧倒的なポジションは、50年以上にわたる技術蓄積と品質への信頼の証左だ。1984年に商号をTHKに変更し、グローバル展開を加速。2018年12月期には売上高3,447億円(過去最高)を記録し、2022年12月期には連結売上高3,936億円にまで成長した。
創業者から2代目の寺町彰博氏への事業承継は1997年に行われ、以降27年間にわたり同氏が経営を牽引。その間、THKは産業機器事業に加え、自動車部品事業(輸送機器事業)への多角化を推進した。サスペンション用ボールジョイントやステアリング部品など、自動車の安全・快適性を支える部品群で事業を拡大し、売上構成の約4割を占めるまでに成長させた。
しかし、この多角化戦略が後に経営の重荷となる。産業機器事業がLMガイドを中心に高い収益性を維持する一方、輸送機器事業は先行投資が嵩み、期待された収益化が進まなかった。全盛期の数字の裏で、事業ポートフォリオの歪みは静かに、しかし確実に拡大していた。
何が起きたか
THKの転換点は、2018年のピーク後に訪れた急激な環境変化から始まる。
2019年12月期:売上高が2,745億円に減少(前年比20%減)。米中貿易摩擦と半導体市況の悪化が直撃した。
2020年12月期:コロナ禍が追い打ちをかけ、売上高は2,189億円まで低下。営業赤字に転落し、創業以来最大の試練を迎える。
2022年12月期:売上高3,936億円まで回復するも、輸送機器事業の収益性問題は解決せず。自動車生産台数の低迷とEV化の加速が重くのしかかる。
2024年1月:27年ぶりの社長交代。創業家3代目となる寺町崇史氏が社長CEOに就任。父・彰博氏は会長に退いた。
2024年12月期:連結売上高3,527億円を計上。しかし内訳を見ると、輸送機器事業は売上1,361億円に対し営業利益わずか6億円(利益率0.4%)。一方、産業機器事業は売上2,166億円に対し営業利益168億円(利益率7.8%)という明確な二極化が浮き彫りになった。
2025年4月:黒字決算にもかかわらず、早期・希望退職を実施。「黒字リストラ」として市場の注目を集める。
2026年2月:売上の約4割を占める自動車部品事業をアドバンテッジパートナーズに売却することを決定。
2026年6月:輸送機器事業の売却完了。THKは産業機器事業に経営資源を集中させる新たなフェーズに入った。
失敗の本質的原因
市場・競合環境
自動車産業は100年に一度の変革期を迎えている。EV化の加速は、内燃機関を前提とした部品メーカーのビジネスモデルを根底から揺るがした。THKの輸送機器事業も例外ではない。従来のサスペンション部品やステアリング部品は、EVの設計思想の変化により需要構造が変わりつつある。加えて、コロナ禍による自動車生産台数の低迷が回復を遅らせ、先行投資の回収計画は大幅に狂った。
経営判断と意思決定
輸送機器事業への参入自体は、産業機器事業の景気変動リスクを分散させる合理的な判断だった。しかし、問題は「撤退の判断」が遅れたことにある。収益性の低い事業に経営資源を投入し続ける間に、産業機器事業の成長機会を十分に活かせなかった。27年間の長期政権は安定をもたらした反面、聖域なき判断を難しくした側面も否めない。
財務・資金構造
輸送機器事業の収益性は壊滅的だった。売上1,361億円に対し営業利益6億円——利益率0.4%は、資本コストを大幅に下回るROICしか生み出せないことを意味する。連結ROEは3%台に低迷し、投資家の期待に応えられない状況が続いた。黒字とはいえ、資本効率の観点では「静かな価値破壊」が進行していた。
組織と文化
創業家によるファミリー経営は、長期的視点での経営を可能にする一方、事業への愛着が撤退判断を遅らせるリスクも孕む。輸送機器事業は2代目社長時代に育てた「我が子」のような存在だったはずだ。それを手放す決断は、単なる財務的判断ではなく、経営者としてのアイデンティティに関わる問題でもあった。
外部環境・規制
半導体不足、円安、原材料高騰——複合的な外部要因がTHKを襲った。特に円安は、海外生産比率の高い輸送機器事業にとって収益圧迫要因となった。EV化に伴う環境規制の強化も、従来型部品の将来性に暗い影を落とした。
経営者の意思決定を再構築する
寺町崇史社長の立場に立ってみよう。
2024年1月、あなたは父から27年ぶりに経営のバトンを受け取った。目の前には、創業家が50年以上かけて築いた企業がある。LMガイドで世界トップシェアを誇る産業機器事業。そして、父の時代に育てた輸送機器事業——売上の4割を占めるが、利益はほとんど出ない。
数字は冷酷だ。輸送機器事業の営業利益率0.4%。産業機器事業の7.8%と比較すれば、どちらに経営資源を集中すべきかは明らかだろう。しかし、輸送機器事業には多くの従業員がいる。取引先もある。何より、父が丹精込めて育てた事業だ。
「黒字なのに、なぜ今なのか」——その問いは外部からだけでなく、社内からも上がったはずだ。
しかし、あなたは知っている。赤字になってからでは遅いのだ。赤字転落後の撤退は「敗戦処理」になる。従業員の処遇も、売却条件も、すべてが不利になる。黒字の今だからこそ、従業員には希望退職という選択肢を示せる。事業には買い手がつく。
ROE10%超という目標は、単なる数字ではない。「株主資本に対して適正なリターンを出す」という、資本市場との約束だ。それを果たせない経営は、長期的には企業価値を毀損する。
「攻めの撤退」——その言葉には、後ろ向きな響きはない。むしろ、将来の成長に向けた経営資源の再配置だ。あなたは、父の遺産を守るのではなく、次の50年を創る決断をした。
海外類似事例との比較
THKの決断は、グローバル企業の構造改革と軌を一にする。
ゼネラル・エレクトリック(GE) は、かつて「世界最大のコングロマリット」として君臨した。しかし、2010年代以降、黒字事業を含む大規模な売却・分社化を断行。2024年には航空・ヘルスケア・エネルギーの3社に分割した。「なんでも屋」から「専門家集団」への転換は、資本市場から高く評価された。
シーメンス(Siemens) も同様だ。収益性の低い部門を次々と切り離し、デジタル・自動化領域に経営資源を集中。2020年にはエネルギー事業を分離上場させ、産業用ソフトウェアとファクトリーオートメーションに特化する戦略を鮮明にした。
コニカミノルタ は日本企業の事例として示唆に富む。複合機事業の構造的な収益悪化を見据え、黒字段階で早期退職を実施。デジタルワークプレイス事業への転換を推進した。「まだ大丈夫」な段階での決断が、変革の選択肢を広げた。
これらの事例に共通するのは、「黒字であることは、現状維持の理由にならない」という認識だ。むしろ、黒字だからこそ変革の余力がある。THKの決断は、日本の中堅製造業がグローバル標準の経営判断を実践した希少な事例として、今後の参照点となるだろう。
経営者・起業家へのインサイト
1. 「黒字」は撤退しない理由にならない
多くの経営者は赤字転落まで事業撤退を決断できない。しかし、その時点では選択肢は狭まり、条件は悪化している。黒字の今こそ、将来の収益性を冷静に見極め、先手を打つべきだ。
2. 売上比率ではなく、利益貢献で事業を評価せよ
売上の4割を占める事業——その数字に惑わされてはならない。THKの輸送機器事業は、売上1,361億円で営業利益わずか6億円。利益貢献度で見れば、切り離すべき事業は明らかだった。
3. 世代交代は変革の最大のチャンスである
27年ぶりの社長交代は、聖域なき改革を可能にした。新社長には「前任者の遺産を守る義務」はない。むしろ、新しい目で事業ポートフォリオを見直す権利と責任がある。
4. 「選択と集中」は美辞麗句ではなく、具体的な売却を伴う
多くの企業が「選択と集中」を掲げるが、実際に売上の4割を占める事業を売却する企業は稀だ。THKは言葉を行動に移した。それが市場からの信頼につながる。
5. 資本コストを下回るROICは「静かな価値破壊」である
黒字でも、資本コストを下回るリターンしか出せない事業は、株主価値を毀損し続けている。その認識を持つことが、経営者としての責任だ。
あなたが経営者だったら?
問い1:あなたの会社に、売上の3〜4割を占めるが利益率1%未満の事業があるとしたら、今日、何を決断するか?
問い2:「黒字だから大丈夫」という社内の空気を、どのようにして変革のエネルギーに転換するか?
問い3:創業家や前任経営者が育てた事業を売却する決断を、どのようにステークホルダーに説明し、納得を得るか?
THKの事例は、日本企業に根強い「撤退=敗北」という固定観念への挑戦だ。黒字で断行した「攻めの撤退」は、経営者が将来を見据えて下すべき決断の本質を教えてくれる。問われているのは、過去を守ることではない。未来を創ることだ。