弔辞
TL;DR
- コロナ禍で売上高が8,085億円から1,250億円へ7割減少、上場以来初の巨額赤字(2年で780億円超)に転落
- 雇用調整助成金約242億円を受給したが、約62.5億円が不正・不適正受給と判明し返還
- 2021年のGoToトラベル不正発覚後も抜本的なガバナンス改革を実行せず、同じ問題が再発
- グループ22社に及ぶ広範な不正は、子会社への監督不足と人事部門の管理能力低下が原因
- 「雇用を守る」という正当な目的が、手段の正当化という罠に経営陣を導いた危機下のガバナンスの教訓
企業概要と全盛期
1980年12月、澤田秀雄氏は東京・新宿西口の小さなオフィスで「インターナショナルツアーズ」を創業した。当時の旅行業界は大手が支配する寡占市場であり、個人が格安航空券を手に入れることは容易ではなかった。澤田氏は「海外旅行をもっと身近に」という理念のもと、格安航空券の販売という革新的なビジネスモデルで業界に風穴を開けた。
1995年に株式を店頭登録し上場を果たすと、HISは急成長の軌道に乗る。1998年には国内営業所が100店舗を突破し、海外旅行取扱額でJTBに次ぐ業界2位の地位を確立した。さらに1996年にはスカイマークエアラインズを設立して航空業界にも参入。既存の秩序に挑戦し続ける「破壊者」としての姿勢が、若い世代を中心に強い支持を集めた。
2010年、澤田氏は経営破綻寸前だったハウステンボスを子会社化するという大胆な決断を下す。多くの専門家が再生は困難と見ていたこのテーマパークを、エンターテインメント施設として見事に蘇らせ、経営者としての手腕を証明した。
2019年10月期、HISは売上高8,085億円という過去最高を記録する。旅行事業単体でも売上高7,224億円、営業利益137億円を達成。澤田氏が2016年に掲げた「売上1兆円」という目標が現実味を帯びてきた、まさに絶頂期だった。従業員は連結で約1万5,000人を超え、格安航空券販売のベンチャーは、日本を代表する総合旅行会社へと成長を遂げていた。
しかし、その栄光の頂点から、わずか数ヶ月後に訪れた新型コロナウイルスのパンデミックが、すべてを一変させることになる。
何が起きたか
2020年3月:コロナ禍の衝撃と最初の赤字
新型コロナウイルスの世界的流行により、HISの主力事業である海外旅行が壊滅的打撃を受けた。渡航制限が相次ぎ、予約のキャンセルが殺到。2020年10月期決算で上場以来初となる最終赤字250億円を計上した。同月、政府の雇用調整助成金の受給を開始し、雇用維持を最優先課題として危機対応を進めた。
2021年10月:過去最大の赤字、そしてGoTo不正発覚
翌2021年10月期は売上高が前年比70.9%減の1,250億円まで落ち込み、過去最大となる530億円の赤字を計上。2年間で累計780億円超の損失という、存亡の危機に直面した。
同年12月、追い打ちをかけるようにGoToトラベル事業での不正受給が発覚。子会社2社で最大約6.8億円の不正受給が認定され、澤田会長ら経営トップ3名が減俸処分(75%・50%減額を3ヶ月)を受けた。このとき、経営陣は「深く反省し、再発防止に努める」と表明した。
2022年12月:助成金受給の終了と「平穏」な2年間
2020年3月から2022年12月までの間に、HISグループは雇用調整助成金等を総額約242.6億円受給した。この助成金がなければ、大規模な人員削減は避けられなかったとされる。GoTo不正の記憶が薄れ始めた頃、会社は回復軌道に乗りつつあるように見えた。
2024年4月:会計監査人からの警告
しかし、水面下では問題が進行していた。2024年4月、会計監査人から「雇用調整助成金の不適切受給に関する情報がある」との提供を受け、内部調査が開始された。11月には東京労働局が子会社ナンバーワントラベル渋谷の調査を開始。12月、事態の深刻さを認識した経営陣は外部専門家による特別調査委員会を設置し、決算発表の延期を余儀なくされた。
2025年1月〜9月:次々と明らかになる不正の全容
2025年1月、特別調査委員会の中間報告を受け、不適正受給約62.6億円を自主返還。3月の最終報告では、グループ22社で総額約286億円を受給していた実態が判明した。問題は単一の子会社に留まらず、グループ全体に及んでいた。さらに9月には子会社ツアー・ウェーブ社でも新たに1.84億円の不正受給が発覚し、返還を余儀なくされた。
失敗の本質的原因
市場・競合環境
新型コロナウイルスによる渡航制限は、旅行業界に前例のない衝撃を与えた。特にHISのように海外旅行に事業を集中していた企業への打撃は甚大だった。売上高が前年比7割減という事態は、平時のビジネス感覚では対処不能な水準であり、「非常時には非常時の対応が必要」という危機意識が組織全体に浸透していた。この危機意識自体は正当なものだったが、それが後に「目的のためには手段を問わない」という姿勢に転化するリスクを内包していた。
経営判断と意思決定
澤田会長のリーダーシップは、HISの成長を牽引した原動力だった。格安航空券、スカイマーク設立、ハウステンボス再生と、常識を覆す意思決定を次々と成功させてきた。しかし、この「ワンマン経営」の成功体験が、コロナ禍という局面では裏目に出た。
子会社には「現場裁量」として大きな権限が与えられていたが、裏を返せば本社からの監督・統制が希薄だったということでもある。2021年のGoToトラベル不正は、このガバナンスの穴を最初に露呈させた。しかし、コロナ対応に追われる中で、抜本的な改革には着手されなかった。経営陣にとって、「危機を乗り越えること」と「ガバナンスを強化すること」は優先順位の競合する課題となり、前者が勝った。
財務・資金構造
2年連続で計780億円超の赤字を計上し、財務基盤は急速に悪化した。この状況下で約1万5,000人の雇用を維持するために、雇用調整助成金は「生命線」と化していた。助成金への依存度が高まるほど、受給要件の厳密な遵守よりも「とにかく受給を続けること」への圧力が高まる構造的なリスクが生じていた。
組織と文化
特別調査委員会の報告書は、複数の組織的要因を指摘している。まず、コロナ禍で人事部門の従業員が退職し、管理能力が低下していた。勤怠記録の正確性を担保する体制が整っておらず、不正・不適正を検知する仕組みが機能していなかった。
さらに深刻だったのは、内部通報への対応だ。問題を察知した従業員からの通報があったにもかかわらず、適切に処理されなかった。「危機対応優先」の空気の中で、コンプライアンス上の懸念を提起することが難しい組織文化が形成されていた可能性がある。
外部環境・規制
政府はコロナ禍という緊急事態に対応するため、雇用調整助成金の要件緩和と拡充を急ピッチで進めた。これ自体は企業の雇用維持を支援する重要な政策だったが、受給ルールの複雑さと申請の容易さは、意図せずして不正・不適正の温床を生み出した。多くの企業が初めて大規模に制度を利用する中で、何が「適正」で何が「不適正」なのかの境界線が曖昧になっていた側面もある。
経営者の意思決定を再構築する
澤田秀雄氏の立場に身を置いて考えてみよう。
2020年春、世界中で国境が閉ざされ、あなたが40年かけて築き上げた会社の主力事業が、文字通り一夜にして消滅した。売上は7割減。毎月、巨額の赤字が積み上がっていく。
目の前には約1万5,000人の従業員がいる。彼らには家族がいる。住宅ローンを抱えている者も、子供の学費を払っている者もいる。「構造改革」や「人員削減」という言葉を使えば簡単だが、それは何千人もの人生を一変させることを意味する。
政府は雇用調整助成金という「救命ボート」を用意してくれた。この助成金を最大限活用することで、大規模なリストラを避け、コロナ後の回復期に備えることができる。従業員の雇用を守ることは、経営者として最も重要な責務ではないか。
確かに2021年、GoToトラベルで子会社の不正が発覚した。反省し、処分を行った。しかし、コロナ禍はまだ終わっていない。今この瞬間も、会社は存亡の危機にある。ガバナンス強化は重要だが、まずは生き残ることが先決だ。子会社の細かな運営にまで口を出していては、スピード感のある危機対応ができない…
このような思考の流れは、決して非合理ではない。むしろ、多くの経営者が同じ状況に置かれれば、似たような判断をした可能性がある。
しかし、ここに危機下のガバナンスにおける本質的な罠がある。「雇用を守る」という崇高な目的は、手段の正当化を誘発しやすい。目的が正しければ正しいほど、手段の検証は甘くなる。「従業員のため」という大義名分の前では、ルールの厳密な遵守は「融通の利かない官僚主義」に見えてしまう。
さらに、GoTo不正という「警告シグナル」を受け取りながら、抜本的な対応を取らなかったことは、重要な意思決定の分岐点だった。このとき、経営陣は二つの道を選ぶことができた。一つは「危機対応を優先し、ガバナンス強化は後回し」という道。もう一つは「危機対応とガバナンス強化を同時に進める」という道だ。前者を選んだ結果、4年後に再び同じ問題が、より大きな規模で発覚することになった。
これは「悪意ある不正」というより、「善意の暴走」と呼ぶべき事態かもしれない。従業員を守りたいという動機は本物だった。しかし、動機の純粋さは結果の正当性を保証しない。
海外類似事例との比較
コロナ禍における政府支援制度の不正受給は、世界各国で発生した。
英国:フルロー・スキーム(一時帰休支援制度)の不正
英国政府は2020年に従業員の給与の80%を補助する「フルロー・スキーム」を導入した。しかし、歳入関税庁(HMRC)の調査により、支援総額約700億ポンドのうち約5%にあたる35億ポンドが詐欺または誤りによる不正支払いだったと推計された。HIS同様、勤務実態のない従業員への支給申請が主な手口だった。
米国:給与保護プログラム(PPP)の大規模不正
米国の給与保護プログラムでは、さらに深刻な問題が発生した。司法省によれば、数十億ドル規模の詐欺が発覚し、数千件の刑事訴追が行われた。虚偽の従業員数申告、ペーパーカンパニーの利用など、悪質な手口も多く含まれていた。
共通する教訓
これらの事例が示すのは、緊急支援制度には構造的な脆弱性が内在するという事実だ。迅速な支援を優先すれば審査は甘くなり、厳格な審査を求めれば支援が遅れる。この二律背反の中で、企業側には「自律的なコンプライアンス」が求められる。
HISの事例が特徴的なのは、グループ22社という広範囲にわたる問題でありながら、「組織的な詐欺」というより「管理の不備による不適正」という性格が強い点だ。これは、ガバナンス体制が機能していれば防げた可能性を示唆している。
経営者・起業家へのインサイト
1. 「危機だから」は、ガバナンス軽視の免罪符にならない
むしろ危機時こそ、不正やミスが発生しやすい。平時に構築した内部統制を、「非常時対応」を理由に緩めることは、後に大きな代償を払うことになる。危機対応とガバナンス維持は、二者択一ではなく両立させるべき課題である。
2. 最初の警告シグナルを、組織変革の契機とせよ
GoToトラベル不正は、HISにとって「炭鉱のカナリア」だった。しかし、経営陣は個別事案として処理し、構造的な問題への対応を先送りにした。最初の問題発覚時に徹底した原因究明と対策を行っていれば、4年後の大規模な不正は防げた可能性が高い。
3. 「現場への権限委譲」と「放置」の境界線を意識せよ
澤田氏の経営スタイルは、子会社に大きな裁量を与えるものだった。これは成長期には機動力をもたらしたが、危機時には監督不足という形で裏目に出た。権限委譲には、それに見合った報告・監視の仕組みがセットで必要である。
4. 「善い目的」こそ、手段の検証を厳しくせよ
「雇用を守る」という目的は正しい。しかし、正しい目的を追求する過程で、手段の正当性を検証することを怠ってはならない。特に公的資金を活用する場合、「ルールを守っている」という自信がなければ、後に大きな信用失墜を招く。
5. 内部通報は「面倒な声」ではなく「早期警戒システム」である
HISでは内部通報への対応が不適切だったと指摘されている。危機時には特に、現場から上がる懸念の声に耳を傾けることが重要だ。通報者を「空気を読めない人」として扱う組織文化は、問題の早期発見を妨げ、被害を拡大させる。
あなたが経営者だったら?
問い1:コロナ禍のような未曾有の危機において、「従業員の雇用維持」と「コンプライアンスの厳守」が緊張関係に陥った場合、あなたはどのような優先順位で意思決定を行うか?
単純に「両方大事」と言うのは簡単だが、現実には時間もリソースも限られている。具体的に、何を先に着手し、何にどれだけの経営資源を配分するか。
問い2:一度、ガバナンス上の問題(GoTo不正)が発覚した後、あなたなら次の一手として何を行うか?
「再発防止に努める」という宣言だけでは不十分であることは、HISの事例が証明している。具体的に、どのような組織変革、制度変更、人事異動を行えば、「同じ過ちを繰り返さない」と胸を張って言えるか。
問い3:創業者としてのカリスマ性と、組織的なガバナンスの制度化は、どのようにバランスを取るべきか?
澤田氏のリーダーシップはHISの成長を牽引した原動力だった。しかし、企業規模が拡大し、子会社が増えていく中で、「澤田流」の経営はどこかで制度化・システム化される必要があった。あなたが創業者なら、いつ、どのようにこの移行を行うか。
HISの事例は、「成功した創業者経営」が持つ光と影を鮮明に映し出している。格安航空券という革新で業界を変え、ハウステンボスを再生させた手腕は本物だった。しかし、その成功体験が生んだ「任せる経営」は、危機時には脆さを露呈した。
重要なのは、これが「悪い経営者の失敗談」ではないということだ。雇用を守ろうとした動機は理解できる。しかし、動機の純粋さと結果の適正さは別物である。コロナ禍という異常事態の中で、多くの経営者が同様の葛藤に直面した。HISの教訓は、危機においてこそガバナンスの重要性が増すという、逆説的だが本質的な真実を我々に突きつけている。